たとえばなにかひどい目にあって苦しんだ人に、「もう終わったことだから」といって慰めようとする人がいる。たしかに物理的に考えるとその体験はもはや跡形もない。でも、人間は、物理的現実のみに生きているのではない。心的現実というものがある。それはそれにおいてリアルなもの、いやときとして、物理的現実よりもずっとリアルなものです。その出来事は過ぎ去ったけれども、「またいつか同じことが起こるのではないか」という恐怖はそこに残る。その人は過去の記憶に苦しんでいるのではない。「現在」に苦しんでいるのでしょう。本人にとっては、終わったことなどなく、その体験はいつまでも「現在」であり続ける。「気のせい」などではないかっことした心的現実です。もし、なにか間違ったことをしたとか、ズルいことをしたとか、怠けていたとか、自分にいくらかでも落ち度があったのなら、「今後は改めていこう」と思える。「そうすればあんなひどい目にあうことはもうないかもしれない」という希望ももてる。「あのツラい体験で自分は成長できた」とだって思える。ところが、人生の過酷なところは、自分にまったく落ち度がなくても、いや、正しいことを愛をもってやってきたとしても、とことんひどい目にあうことがある。立て続けに訪れる不幸によって完膚なきまでに叩きのめされ、自分の存在の脆弱さをどうしようもないほどに思い知らされることがある。チカラにおいて自分は虫けらに等しい、と。自分が、なにをやっても、どう在っても、そんなこととはまったく関係なく苦しいことが降りかかってくるなら、人生のどこに希望というものがあるでしょう。なにを信じればいいのでしょう。自分自身のことだって信じられなくなる。いままでこころ正しく生きてきたと思えるのに、愛してきたと思えるのに、こんな罰を受けるなら、これ以上どうやって自分を信じることができるのでしょう。そういうとき、どうやって立ち上がるか。どうやって生きる意味をふたたび見出すか。あるいは、自分にはなにもなくても、大切な誰かがそんなふうに苦しんでいるときに、どうやって支えてやれるのだろう。どんな言葉も無力です。なぜなら、心的現実というのは、どこまでも個人的なものだからです。自分だけのものです。他人が癒してやれることはない。僕たちは、どこまでも、自分で立ち上がらなくてはならない。その厳しく冷たい現実の中で、だから僕は、「寄り添っ
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